佐土原藩(さどわらはん)は、薩摩藩の支藩とされる。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。
1603年(慶長8年)、島津貴久の弟・忠将の子である島津以久が、日向国那珂郡・児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原)に構えた。この地は元々島津一族の一人であった島津家久・豊久親子の領地であったのが、改めて江戸幕府より以久に与えられたもので、この経緯から正式には薩摩藩の支藩とはいえない。しかし、その後本家に当たる薩摩藩からの度重なる介入を受けた事により、支藩と見なされることが多くなった。
他藩の支藩が、本藩に継嗣無きときには当主を出すなどの重要な役割を果たすこともあったのに対し、佐土原藩は薩摩藩からは従属の立場にあると見なされていた。代々の佐土原藩主正室には薩摩藩出身者(当主島津氏の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘もいる)が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、その弱い立場が如実に現れている。
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佐土原は元々城地であったため、1699年(元禄12年)に第6代・島津惟久の時に城主格が与えられている。又、惟久は義兄である前代・久寿に3000石を分与し、27000石となった。最後の藩主・忠寛は、1869年(明治2年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられた。
廃藩置県の後、佐土原県・美々津県・宮崎県・鹿児島県を経て宮崎県に編入された。
昭和天皇の内親王・貴子が嫁いだ島津久永は、旧佐土原藩の島津伯爵家出身である。
司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。